仏教について

 仏教は、邦語に翻訳されるべきであったろう。
 キリスト教において宗教改革が為されたように、仏典は民衆の直接手に届く所に
 在るべきであった。
 例えば、<百姓の持ちたる国>加賀では一向宗によって平易な文章で書かれた教義が
 説法されることにより、門徒が爆発的に増えた。信仰は、分かり易い言葉で説かれて
 こそなのである。(それゆえに幸か不幸か一向宗門徒は死兵として信長の石山攻め
 に頑強に抵抗することが出来た)


 仏教は、常に僧によって説かれてきた。
 遣唐使によって唐に渡った学僧たちは、経典の意味を理解していたであろうが、後世
 の僧が経典を「読む」ことが出来たのかは、限りなく疑わしいだろう。
 「意味」と称されるものが、語り伝えられることによって大きく変化していくという
 のは宗教に限らず、多く見られる現象である。(人間は文章に書いていることですら
 時代によって解釈を変える生き物である、まして口伝をや。)
 かくして「解釈」は僧たちの世界によって完全に掌握されてしまった。
 しかも、日本における仏教では僧たちは一切衆生を救うわねばならない。この時点で
 一切衆生は「解釈」からは切り離された状態で、「説法」を与えられる存在となる。
 この点についての善悪は、各々の時代背景によって為されるべきであろう。
 宗教改革があと百年早ければ、ルターは磔にされていたであろうし。


 時期としては、可能であるならば室町時代の中期を最後とする一連の時代において
 が最適であり、それ以外の時代ではこの試みは果たして成功しないか、或いはその
 効果の面において大きく減じた可能性が大いにある。(これはあくまでも、現在の
 私の歴史認識の範疇においてである)
 民衆の持つ潜在的な力と社会情勢を見れば、室町中期でこそ、仏教版「宗教改革」は
 為せるように思う。 


 もし仏典を翻訳するのであれば、どういう形が望ましかったであろうか。
 私は韻律に富み、民草でも諳んじ易い文章で為されるべきであったと思う。
 そうすれば、恐らく明治期にあれだけ「日本語」をでっちあげることに苦労は
 無かったであろう。


 本を読んでいて、新約聖書の言葉が引用されることはあっても、仏典の言葉が引用
 されているのを見たことが、ない。(考え方やエピソードは引用されていても)
 これは、残念なことだと思う。
 日本人が蘇我稲目の時代から慣れ親しんだ仏教が、精神的な支柱としての地位を
 失ったのは果たして廃仏毀釈の所為のみであるのか。
 宮沢賢治の二十六夜を読み返しながら、ぼんやり考えておる次第。