つれづれ



今日は飲み会なンであらかじめ日記的な物を書こうと思ったのですが、書く事ない。




 手塚も宮崎も富野も押井もみんな変態だから良いものが作れたと思う。
 でも変態が変態であるだけでは駄目で、変態という実存が自分は変態だという
自己認識を持ちながらそれでも変態であるべきではないという倫理感との葛藤が
ないと変態という価値は作品に昇華されないのだと思う。


 この所の変態的な作品は自分が変態であるということの表明と妄想の垂れ流しに
過ぎなくて、そこには優れて変態的な隠喩や暗喩、言い換えや連想といった技法は
存在しない。
 これでは安易な変態のぬるま湯に浸かってしまって真の変態は生まれない。


 変態は、蔑まれるべきだ。
 蔑まれ、罵られ、自己の存在そのものを否定され、それでも変態であることを
諦めきれず、何者かと変態であることを分かち合いたいと願ったところにこそ、
変態的な作品が生まれるのだと思う。