就職活動に手を染めれば手を染めるほど、自分が何をしたいのが見えなくなって
 くるのが恐ろしい今日この頃、皆さん如何お過ごしでしょうか?


 自分の生きてきた二十一年間に何を為してきたのか、と考えると「生かされていた」
 という言葉がしみじみと痛感できます。
 何もせずにただ、御飯を食べて排泄物を生産するだけの肉袋としての生活を経て、
 いざ社会に出ようといった時に、誰が雇ってくれるというのでしょうか?


 就職活動とは、「自分」を「企業」に「販売する」作業である、と言われますが、
 「自分」という存在の中にある少なくとも肯定的に捉えうる部分が「企業」に
 とって不必要なものでしかなかった時に、人はどうやって職を選び、口に糊し、
 生涯を送っていけばよいのでしょうか。


 「自分」のしたい仕事をすれば良い、というのが最良の答えでしょうが、「自分」
 が何をしたいのかということを考えた時、いつも答えは過去にあって、今にも未来
 にもないのです。つまり、「自分」がやりたいと思う仕事に必要なスキルを自分は
 もっておらず、しかも一度きりの裁定の時は刻一刻と迫ってきているのです。


 画一的な就職活動の中で、自分が今どういった位置にいて、それが遅れているのか
 正常なのかの判断も付かぬまま右往左往として、目標すら綺麗には定まらないのに
 無駄に時間と労力を消費していくというのは愚にも付かないことだとは思うのですが
 どうにも就職活動の報告を見ていて感じるのは皆同じように職業を選んでいるという
 ことで、ああつまり職業選択の自由などというのはお題目であって、結局は強い魂と
 貫徹する力のある者だけが自らの信じる道に入ることが出来るのだなぁとナイーブに
 なっています。


 ああ、こんな時に彼女がいたらなぁ。と思いつつ、彼女がいてもそれは彼女に愚痴が
 言いたいだけであって依存したいだけではないのかと自問しては悶々とし、自分には
 彼女がいないのではなく、彼女を得る権利が欠如しているのであると自虐的な思考に
 陥るということ自体が既にかなり病んだ状態だなぁと冷静に自己分析してみるも、
 冷静に自己分析するべき意識も肉体に立脚しているが故に引き摺り下ろされてしまう
 というスパイラルです。


 ああ、これが青春か。